「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

「制御系」~ゴルフスイングを彩る「未来予測」の技術~(8)

「未来予測」の技術は、以下2行の文章に纏められる。


①バックスイングで発生するフィーリングは、ダウンスイングする際に必要なフィーリングである。
②ダウンスイングで発生するフィーリングは、バックスイングする際に必要なフィーリングである。


具体的には、上記①②における2つのフィーリングを交換し合うあうことでゴルフスイングが生成される、、と書いても何のことだかチンプンカンプンだろう。


この「未来予測」の技術は著者独自のもので、文面を一般的なゴルフ知識などによる解読で理解しようとしても、それは不可能に近い構造になっている。これを理解するには、著者による独自性の説明・補足が必要で、その補足によって少しずつ読み解ける構造になっている。


これから何回かに分けてその補足の文を継ぎ足し、謎めいた部分が少しずつ明らかになっていく展開にする予定だから、少しだけ期待して読み続けて頂きたい。


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これまでの話で2つの文章の「目的」と「バックスイング」「ダウンスイング」の定義について説明してきた。今回は定義の続きで「フィーリング」についての話である。


②「フィーリング」


フィーリングと言っても世間的に様々な捉え方がある筈で、だからまずはこのブログで「著者が扱うフィーリング」についての、基本的な定義から説明していかねばならない。


つまり、著者が考えるフィーリングとは一体どのようなものかという説明が必要だという訳だが、そもそも著者はフィーリングの事を次のように考えている。


【著者にとってのフィーリング】
静止したボールを打つゴルフは、他のスポーツよりフィーリングを重要視する風潮が強い傾向があるように思える。


例えばこれが野球なら(フィーリングより)反射神経やパワー・スピードの方が重要だといった風潮が強くなるのかもしれないが、ゴルフの場合はその競技性から(反射神経やパワー、スピードより)コントロールする「制御能力」が重要視されるので、コントロールする上で最も重要なフィーリングが注目されやすいという訳だ。


ゴルフは反射神経やパワーが求められる他の球技と違って、どちらかというとビリヤードに近いスポーツなのかもしれない。


とはいえ、ゴルフでフィーリングを意識化するのは大人だけであり、幼い子供が無垢にゴルフをする場合、フィーリングを意識化することは殆ど無い。だからゴルフをする上でフィーリングは意識しない方が良いのだという「自然派」のゴルファーも多数存在する。


著者の場合は明らかに(それとは逆の)フィーリングを意識化することを推奨するタイプの理論派ゴルファーだと言えるだろう。


もっともフィーリングについて語るには、それなりの基礎知識の積み重ねが必要で、もし半端な知識でフィーリングを意識化していたら、ゴルフをする上で(フィーリングを意識化する行為は)マイナスに働く危険性の方が高くなるだろう。


例えば、ゴルフ競技をする上でフィーリングを語る際、著者が声を大にしてお勧めする文献として、人の有意識について神経内科医ラマチャンドランの経験から語られる「脳のなかの幽霊」という有名な著書がある。


「脳のなかの幽霊」はゴルファーにとって重要な書である。既に読んで内容を熟知している方なら同意を得られるかもしれないが、著者に言わせればこの名著を読んでいないゴルファーは、フィーリングについて気安く語らないほうが無難だと、つい釘を刺したくなるような衝動に駆られる。


「脳の中の幽霊」はそれぐらいゴルファーにとって必須の情報で埋め尽くされている名著と言っても過言ではないので、もし読んでいないのなら是非手に入れて読み込んで頂きたいと思う次第である。


著者からすれば、フィーリングを語る上で必須の知識というものがあって、そういった土台がしっかりしていないゴルファーがうかつにフィーリングを意識化することは、メリットよりリスクになる危険性の方が高いように思える。(この部分だけなら、著者は自然派の意見に同意するだろう。)


ゴルフをする上でフィーリングを扱うなら、正確な知識を得ておくことが何より優先されるという訳だ。


そもそも論として話せば、フィーリングとは「クオリア」のことだから、脳科学的に考えるとフィーリング(=クオリア)を人々が共有可能な情報として取り扱うこと事態がタブーになってしまう。


脳科学におけるクオリア問題とは、例えばチューリップの赤い色は人それぞれ別の色彩として眼下に輝き、多種多様の色合いとして感じ取られている可能性が高いといった話である。


この考え方からすると、(例えば)ゴルフスイングで「トリモチが粘るような感覚」といった表現で、スイングにおけるフィーリングを人に伝えたとしても、その「トリモチが粘る感覚」は人によって違う筈で、各自が多種多様の個性的な「トリモチの粘り」として感じ取っている可能性の方が高いのである。


よってフィーリングを情報化させて、それを技術論の一端として扱うにしても、基礎となる感覚を共有することがそもそも不可能だから、これから著者がこのブログでフィーリングについての論を展開するにしても、そういった問題を無視して通る訳にはいかないのである。


こういった基本的な知識をしっかり踏まえた上で「フィーリング」という情報を扱わないと、技術論としては余りにも未熟で不完全で、役に立たないものになってしまうだろう。


それでは一体どうやって著者は(個人的なものでしかない)フィーリングをゴルフスイングの技術論として扱っていくのだろうか?という謎と言うより、懸念が沸き起こるだろう。


先に少しだけタネを明かすと、著者が扱うフィーリング論の基本原則として、ゴルフにおけるフィーリングは記憶するのではなく、「その時、その場で感じるもの」として扱うのである。


名著「脳のなかの幽霊」の情報を踏まえると、ゴルフにおけるあらゆるフィーリングは全て脳内であれこれ勝手に捏造され、創造された産物に過ぎない。


だからそれを「リアルなもの」として扱うことはタブーでしかない。たった今感じているフィーリングでさえ、かつてどこかで記憶され、脳内に蓄積された感覚データー群としてそれらを「繰り返し再生」したものに過ぎないかもしれないのだ。


「脳のなかの幽霊」によると、私たちが今感じている「現実の感覚」というものは、実際は全て脳内で捏造された「記憶を再生したもの」に過ぎない可能性の方が高い。だとすれば、ゴルフをする上で「それらの捏造記憶によるニセモノ感覚」が、絶えず私たちを騙して、ゴルフをする上であらゆるミスショットを誘発させてしまう真犯人である疑いさえ抱きかねない。


これではまるで24H年中無休の詐欺師と付き合っているようなものである(私たちの脳は、脳内でニセモノ感覚をチラつかせ、私たちを騙そうとする最強の詐欺師なのだ)。


どうやれば「リアルな感覚」を取り戻す事ができるのだろうか?


練習によって感覚を「成長」させたり「練磨」するといった目的で、変質・変化させるような方法は全て否定すべきだろう。極論すれば「感覚を研ぎ澄ませる」という意識でさえ、変化のひとつに数えなければならなくなる。


ところで、実際の「未来予測」の技術でスイングする著者の実感としては、スイング中のフィーリングは殆ど無視している感じがする。本当に必要なことはスイング中のフィーリングを感じ取ることではなく、ナイスショットを打つ為に「必要な力加減でクラブを振ること」であるから、そもそもスイング中のフィーリングを感じる必要は無いのだ。


著者はゴルフスイングで求めるものは「力加減の設計図」である。


確かな設計図があるなら、その通りに組み立てたスイングをすればナイスショットは約束される筈で、だったらスイング中に感覚を得て「大丈夫か?」などと如何わしく成否をチェックする必要など無いという訳だ。


色々書いたので、少し纏めておこう。


【まとめ】
①「脳のなかの幽霊」による知識と踏まえる必要性について。フィーリング(=感覚)は騙し絵のように本人の脳が本人自身を騙している構造になっているという知見。騙されている事実に(その全体構造の中で住んでいる)当人自身が絶対に気付く事ができない。


②他人のフィーリングを言葉として表現したものは参考にならない。必要なのは、記憶した感覚ではなく、今感じているあるがままの「リアル」である。


③フィーリングは「感じ取るもの」と「動く為に必要な設計図(力加減)」の2種類に分けられる。ゴルフスイングに必要なのは「感じるもの」ではなく、「動く為に必要な設計図」の方である。


(続く)

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