「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

いきなり始まるゴルフスイング(15)

(前の続き)
「三半規管」はバランスの要で、人の運動全体に影響を及ぼす重要な器官である。


「三半規管」は耳の奥にある小さな器官だが、人が立ったり歩いたりする際、バランスを保つために必要不可欠な「重力」を感じ取る役割がある。耳の穴にゴミが溜まると、三半規管が機能障害を起こして、船酔いみたいに気分が悪くなることがあるらしい。ホコリが溜まった部屋を掃除して船酔いみたいに吐き気がしてきたら、試しに耳の穴を掃除してみると良いかもしれない。


ゴルフのみならず野球や武道、ダンスなどで「軸」という言葉を使う様子だが、これらの多くは主観的なものに過ぎない。著者が扱う「ゴルフのスイング軸」も例外ではないが、この三半規管が関係する「バランスの整った状態」として、それを概念的に扱うユニークな考え方をしてるから、多くのゴルファーにとって刺激的で参考になる部分があると思う。


(意味がさっぱり分からないと思うので、さらに説明を加えていこう)


多くのゴルファーは「背骨」や「重心」「軸足」といった単語を使ってゴルフスイングの「軸」を説明しようとするが、著者はそれらの単語を使って説明しようとは思わない。


著者の定義するゴルフスイングの「軸」はちょっと独特で、平らで水平な地面の上でバランスよく立っている間、それは調和された気配の中に溶け込んでしまう特徴があるものだと考えている。だからそれを意識するのも難しいし、あるいは意識しようとすること自体、間違っているのかもしれない・・・


それでも平らで水平な地面で意識しにくい「軸」を捉えて研究しようとするなら、著者は左足上がりの斜傾地で、ゴルフスイングを実践しようとする。


左足上がりの傾斜でショットを打とうとして構えると、体重の多くが右足に乗って、下半身全体が大きく歪んだ形に変形する。それで「調和したアドレス状態」が崩され、普段意識しにくい「軸」というものが、実感し易くなるという訳だ。


ところが、人間は「あらゆる環境」に適応していく特性があるから厄介である。


変な喩えだが、美人の奥さんでも、毎日見ていると飽きてしまって、出会った頃の衝撃的な感覚は薄れて、次第に思い出すことも出来なくなる。逆にブスの奥さんでも、毎日一緒に暮らして慣れてしまうと、それほど外見的な部分での、衝撃的な印象はすっかり無くなってしまうものなのである。


つまり何が言いたいのかというと(笑)、斜傾地で全体が歪んだ身体状態でも、ずっとそこで練習を続けていると、感覚が慣れてしまって、そこが斜傾地であることすら実感できなくなってしまう、と言いたいのである。


実際のゴルフコースに厳密な意味での「平らな場所」は存在していない。


事実上、平らな場所は「ゼロ」であると宣言しても過言ではないのだが、多くのゴルファーはそのことを意識せず、ゴルフをしている。


何故そうなるのかというと、普段から私たちはある程度斜傾がある地面の上で生活しているから、ことさらそれを意識しなくても、僅かな傾斜地ぐらいでゴルフスイング運動に支障が起きない程度の身体能力がすっかり身に付いてしまっている、という事なのだ。


人は僅かな傾斜だと、慣れてしまって感じ取ることすら出来なくなる訳だが、それらを「概ね平らな地面だ」と思って対処してしまう「鈍感さ」は、ゴルファーにとっては致命的なミスを引き起こす原因となりうる。


僅かな傾斜程度でバランスを崩さずに生活している私たちでも、綱渡りのようなハードなバランス競技にチャレンジすると、その鈍った身体意識が露呈して、綱の上で立つことすら容易では無いレベルだと気が付かされる。無論そんなハードなバランス競技でさえ、ずっと続けて慣れてしまうと、最終的にはそこで立ったり歩いたり平気でできる身体になってしまうのかもしれない。(厄介である)


ゴルフ競技に関して、この特性は厄介である。何故なら、数多く練習して「感覚を鋭くして、それを覚えよう」という目的で練習するのであれば、原理的にそれは達成不可能な、間違った方法である理屈が成り立ってしまうからだ。


人の「感覚」は、同じ行為を何度も繰り返すと鈍くなる特性がある。


この現実に直面すると、数多く練習するという方法論は、あらゆる感覚をより鈍くさせて、最終的に何も分からなくさせる方向へズンズン歩いて行くようなものであると、気が付かされてしまうという事だ。(厄介である)


スランプに陥ると、この悪循環からさらに脱しにくくなる。分からないから、練習の数をさらに多くして、さらに感覚が鈍くなるから余計に分からなくなるという連鎖に陥るからだ。


過ぎたるは及ばざるが如し。何事も程ほどが良いという古人の言い伝えは、そういう意味も含んでいた筈だが、人の話しを理解できるほど、私たちの知性は発達していないのだろう。


さて、著者はそういった鈍くなった感覚を呼び覚し、身体の感覚を研ぎ澄まさせる技術を扱おうとする方向に顔が向く。だから、巷でよく言われる「背骨を真直ぐに」とかいう、繰り返してより鈍くさせるような、扱いにくいタイプの方法論を全て捨て去ろうとする訳である。


では、鈍くなって僅かな傾斜を実感できなくなっている「鈍い身体感覚」を、著者はどのような技法を使って呼び覚まし、それを組み立ててゴルフスイングへと繋げて行くのだろうか?


いよいよこのブログはゴルフ技術の本編へと突入していく様子であるが、長くなってきたので、この話も次回に持ち越そうと思う。といっても、次回の更新はかなり遅く後になりそうな気配もあるので、念の為ヒントだけは出して話を終えようと思う。


 ※次回のヒント・・・「デッサン」 (続く)

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