「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

このブログにおけるゴルフスイングの定義(2)

(前の続き)
昨日路上でハトを見た。改めてこの愛らしい小さな鳥を見ると、数千万年前に地上最大の肉食恐竜として君臨したティラノサウルスの末裔だとはちょっと思えない。小鳩の愛らしい姿から、恐竜映画で観られるTレックスの獰猛さは微塵も感じられないからだ。誰も小鳩を見て、それがティラノサウルスの子孫だとは想像もできないだろう。


ゴルフスイングもこれと同じで、見た目の印象と、本質的な運動現象が無関係である可能性がある。素人一般がまず思うことは、ゴルフスイングの運動現象が野球のバットスイングと同じだという印象であろう。


著者も少年野球の経験があるので、ゴルフを始めた当初は、野球のバッティングみたいにゴルフスイングしようと努めていた。そこでまず手始めに、野球のバットスイングとゴルフスイングが同じ運動原理であるのかを検証してみたい。


著者も経験したことだが、野球経験者がバッティングのようにゴルフクラブをスイングすると、打ち出されたゴルフボールは右側へ向ってプッシュアウトスライス気味に飛び出すミスが出てしまうという現象が現れる。


素人はもちろん、プロ野球選手ですら同じ傾向のミスが出るらしいから、とりあえず野球のバッティング技術をそのままゴルフスイングに応用するのは、不向きな点が多数あるものと断定しても構わないだろう。


プッシュアウトスライスとは、打球が目標より右へ飛び出て、そこからさらに右側へとカーブしてしまうミスショットの名称である。このプッシュアウトスライスが出ると、ボールはコースから大きく右へ外れて、ラフに入ったりOBになる危険性が極めて高くなるので、とてもゴルフにならない。


だからといって、「野球のバッティング技術はゴルフに不向き。以上」と結論を出して終われば、何も解析できていないという不満が起きてしまうに違いない。納得のいく説明がなされない限り、たとえ不向きだとしても、野球の打撃技術の全てが不向きだとは言い切れない、という疑念がどうしても残ってしまうのである。


そのように思ってしまうのは、野球のバットスイングに限らず、長い棒状の道具を使ったスポーツや武道、仕事などが世の中に沢山あるが、それら長い棒状の道具を扱う技術には、何らかの共通した技術の要素があるに違いない、という根拠の無いイメージが人々の中にあるからだろう。


だが、そういった(先行した)理想主義的なイメージは、原理原則を分析するのに不向きであると著者は考える。何故なら、それらを本質的に分析する為に必要なのは、論理的な思考であると考えているからだ。


それでは著者の流儀で、論理的にこの問題について考え進めてみよう。


野球のバッティングに限らず、長い棒状のものを振る動作に、何らかの共通した原理原則があるに違いない、という理想的なイメージの正体は一体なんだろう?


ゴルフや野球、剣道、掃除のモップ掛けを扱う際などに、その運動の原理原則が最終的に同じものとして潜在しているに違いない、という確信している考え方を抱いてしまう者は、仮説的ではあるが、次のような考え方を採用しているのである。


それらの共通した技術の要素は、最終的に同じ原理原則によって同じ進化経路を辿って、究極のスイング形体のようなものに行き着く。故にそれら同じ原理原則の論理によって動かされる棒状の操作技術は、それぞれ別の種目に併用可能となるだろう。


ちょっと分かりにくいと思うので、少し違った表現にしてみよう。


例えば、ありがちな漫画の演出であるが、とある武術の達人がゴルフ競技にチャレンジすると、途端に達人的なゴルフ打撃技術を披露し、これまでゴルフ界に君臨してきたプロゴルファー達を凌駕してしまう爽快な活躍劇のイメージである。


(分かるだろうか?)


こういった漫画の演出的なイメージを美的に抱く者は、すべからくロマンシズム的に、武道の達人ならあらゆる操作技術のスポーツ競技などで、いきなり大活躍することが可能な、神的なる技巧がこの世界に潜在していると、予見する立場に立っているのである。


では、現実はどうだろう?


ゴルフ競技に野球のバッティング技術などを併用すると、(前記したように)殆どがプッシュアウトスライスのミスショットになってしまう傾向がハッキリと出ている訳である。


これはどういうことか?


この問題について著者は「自然なる動きが真であるか?」という問いに変換して考えることを提示したいと思う。


これを分かりやすい喩え話にして説明してみよう。


とあるテレビ番組で、次々と子供を生んで育てる、ビックダディの愛称で知られる父親を中心とした、15人規模の大家族が織り成す奮闘記が大ブームとなったことは記憶に新しい。たぶんあの番組のことは、殆どの閲覧者も覚えていると思う。(よって詳細は割愛する)


あのビックダディは、人間本来の、純粋で自然なるセックス行為は全て生殖活動として行われるべきだ、という主義を抱いていた。だからあの夫婦は子供が生まれる度に、次の子を即座に妊娠させるセックスを続けた訳であり、でなければ、あれだけ大人数の子供に増える筈も無いのである。


確かにビックダディの「生殖=セックス主義」は、人の自然なる姿を現しているのかもしれない。


だが、この世のあらゆる夫婦がビックダディのように次々と子供を宿していったら、未来の人間社会は一体どうなってしまうだろうか?


単純にイメージしてみると、2人の夫婦がセックス適齢期の15年間でそれぞれ10人ぐらいの子供を生んで育てると仮定する。その社会の人口は15年間で5倍程度に膨れ上がることになるだろう。日本国内の総人口は15年後に5億人、30年後に25億人、45年後に125億人、60年後には625億人に達することになる。


まさにねずみ算式の倍々ゲームでの増え方である。この狭い国土にたった60年間で625億人に増えてしまうとなると、間違いなく全ての人々に食料が行き渡らなくなり、全員が生き残れない結果になることは明白である。


つまり、ビックダディは、人が文明社会を築いた段階で、既に人を襲う天敵の襲来に見舞われる危険性がゼロに極めて近くなっている現状を見過ごしていた訳である。


もしビックダディが人間の築いた文明を全て捨てて、裸と素手だけで野生のジャングルの中を生活するとしたら、その生殖行動の主義はライオンなどの肉食獣に襲われるなどの命の危険に絶え間なく遭遇することで、その数を減らして、自然に人口バランスが保たれる結果になって、マッチするのかもしれない。


だが、現実の人間社会でビックダディの主義は不適合なのである。


確かにビックダディのセックス主義は、人の自然なる姿を示す意味では正解かもしれないが、文明社会を築き上げた人間が抱くべき「正しい生殖活動」であると言えない訳である。


ビックダディの主義は人の野性的な形として「究極の答え」に近いのかもしれないが、彼のやり方をゴルフ競技に例えるなら、何百打もOBを打ってしまう散々たる結果になったようなものである。


(このまま本筋に話を戻してしまうが)


自然に振舞えば、全てOBになってしまう。だとすれば、その自然なスイングの原理原則は根本的に間違っていると、判断を下すべきなのである。


要約すると、そもそもこの問いは「自然な動きとは、ゴルフスイングとして真なのか?」という問いに変換可能であり、著者の答えとしては「自然に従うと、ゴルフでは全てOBになる」という結論が出た以上、それは「間違い」であるという訳である。


もし貴方がゴルフをするなら、自然でナチュナルな動きを達成すれば、ボールは思うように打つことができる筈だ、という根拠のない技術論をロマンチックに思い描いてしまうかもしれない。


だが、その理想は(結論を先に言うと)ゴルフスイングにおいては間違っているのである。


(続く)

×

非ログインユーザーとして返信する