「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

いきなり始まるゴルフスイング(6)

(前の続き)
これからゴルフの「目的」について定義したいと思うが、その前にここまでの展開を大雑把にまとめてみようと思う。


このブログでゴルフスイングの話をすべき著者が、何故か「英会話レッスン」について思うことを書き始めた。(一見して愚痴にしか思えない脱線した内容であったが、次第にゴルフスイングの技術の話に繋がっていく展開にするつもりだった。)


本来なら1000時間以上のヒヤリングが必要であると言われる英会話スキルの習得に、殆どの日本人は100時間にも満たないヒヤリング経験しか持てない状況がある。主な理由は、現在の庶民的な日本人の経済的・時間的な投資できる「量」がまったく不十分であるからであると、著者は断定した。


ゆえに国内で英会話能力を習得できるのは、(天才を除いて)富裕層の子息ぐらいである。


ゴルフにもこれと似た事情があり、少なくとも5千~1万回以上のショット練習と、短期間に連続したラウンド経験が、少なくとも10回程度は必要であるとも説明した。


そして、国内のレストランなどでハンバーグ定食を食べる際、日本人の多くは箸を使って食べているが、欧米の人々に対しては(たとえ和食メニューであっても)彼らが使い慣れているフォークやナイフ、平たいお皿に載せたパンを出す方が喜ばれるかもしれない、といった事も書いた。


食事を美味しく食べる「目的」を果たす為に、欧米の文化圏で育った人々へ(和食だからと)日本の箸を使うように強要しているかの現状は、ある意味モラハラなのかもしれない。


――――――ここからが今回の話である。


これまで説明してきたように、ゴルフや英会話の能力を習得する「目的」を果たす為に、私たち庶民はもっと有効な手段を用いるべきである。理由は、私たちが「時間を持て余した富裕層」ではないからだ。


ゴルフにおいて有効な手段を理解するには、まず第一にゴルフにおける「目的」を定義しなければならない。


例えば、これを「より少ない打数でホールアウトすること」と定義するなら、答えは以下のようになってしまうだろう。


10メートル程度の難しいグリーンへのアプローチが求められる場面で、使い慣れていないゴルフクラブを使って微妙に打つ「難しいアプローチショット」にチャレンジするのは
一切止めて、(誰も見ていない隙を狙って)ヒョイっと地面からボールを拾い上げて、目的の場所に向って、そのまま手でポイッと投げてしまう。


これなら、使い慣れないゴルフクラブと違って、手でボールをヒョイと投げる程度の動作なのだから、たとえ練習ゼロでもそこそこのアプローチが達成できるだろう。


もっと極端な手段もある。それは実際のスコアの数より1~2打少なめの数字をスコアカードに記帳するのだ。これなら誰にでも容易くスコアアップできるではないか?


つまりは、ゴルフの技術の本質は、そうやって卑怯な手段を講じるテクニックに特化させて上達を目指す方向へとシフトすれば良いという結論に達するだろう。


え・・ それじゃあイヤだって??(笑)


そう。もしそれで満足できるなら、人々はゴルフ競技をここまで発展させはしなかっただろう。人々がゴルフに夢中になってしまう大きな理由は「ゴルフ競技を純粋に楽しみたいから」である。


つまりスコアアップそのものが「目的」ではなく、スコアアップした分だけ「自分のゴルフ能力がアップしたと実感できる」から楽しいのであり、その楽しみを得るために真面目なゴルフをする条件を守らねばならない訳である。


ということは、ゴルフ競技を楽しむ為に、庶民的なゴルファーといえども、全く使い慣れないゴルフクラブを使って、ルールを守りながら、なんとかしなきゃならない訳である。


さて、困ったワイ(笑)


使い慣れないゴルフクラブだから、上手くできない。だから正規のゴルフレッスンでは「ゴルフクラブを沢山使って慣れる」という方法を採択している訳である。そしてゴルフの競技ルールでは、あくまで「使い慣れないゴルフクラブを使うこと」しかない許されていないという事態なのだ。


つまり国内で出されたハンバーグ定食であっても、あくまでナイフとフォークを使って食べなくてはならない訳だ。


だが、この状況は困難なだけではない。この困難さは、私たちに「ゴルフの純粋なる目的」を、ぼんやりとだが見せてくれている感じを齎してくれる様子だからである。


著者は庶民的ゴルファーがゴルフ競技で果たすべき「目的」について、以下のように定義しようと思う。


「目的」=「使い慣れないゴルフクラブを、練習せずにコントロールすること」


もしゴルフの定義をこれとは違う(例えば)「ナイスショットを打つこと」や「ドライバーで飛ばすこと」であると定義するなら、どんなに経験の少ない素人ゴルファーでも「マグレの1発当り」が打てる確率があるのだから、少なくとも数回ラウンドもすれば誰にでも自分のゴルフで満足できてしまう事になる。


勿論「マグレ当り」でナイスショットを打っても、満足できる人は皆無に等しい筈だ。現実のゴルフ競技における楽しさは、「思い通りにショットをコントロールできた経験」に尽きるからだ。


「みんなのゴルフ」というタイトルは、やったことが無い人でも見聞きした覚えぐらいはある有名なTVゲーム名だと思うが、こういったコンピューターのゴルフゲームをプレイすると、誰でも思い通りにナイスショットを打つことが出来てしまう。


そして昨今のTVゲームがよりリアルな方向に進化を遂げた事によって、ゴルフ競技におけるグリーンの傾斜や芝目の読み方、あるいは風やラフの状態などを再現できるようになり、それによってゴルフのメジャー競技のひとつである全英オープンレベルの難易度に設定できたとしたとしても、TVゲームの中でそれをプレイしてみると、案外誰にでもパープレーで周れてしまうものであると、分かってしまう事実がある訳である。


何が言いたいのかというと、現実のゴルフ競技の本質は、こういったゴルフコースの難易度や、風や芝目などの自然なるものや、ルールから構成されるゲーム性そのものにある訳ではないと言うことだ。


現実のゴルフ競技のゲーム性は、TVゲームなどとはまったく違う要素がある訳で、むしろそれこそがゴルフ競技の醍醐味であり、ゲームの本質を物語っているのだと書いた方が、正しくなるのである。


現実のゴルフ競技の難しさ(=面白さ)は、プロ中のプロでさえ、たった1mのパットを外してしまう場面に現れていると言えるのである。


こればかりは、やったことが無い人には通じにくい話になってしまうのだが、
ゴルフ競技の面白さはゴルフの「ゲーム性そのもの」ではなく、むしろ思い通りにコントロールできないゴルフクラブを、計算通りに操ることができるかどうか?を競い合う部分に集約されていると言っても過言ではない訳である。


もし(TVゲームのように)思い通りにゴルフクラブをコントロールできるのなら、ゴルフはそれほど面白い競技にはならなかっただろう。


最後に、著者が定義したゴルフにおける「目的」について再復習しておく。


【ゴルフの目的】
庶民的なゴルフファーの「目的」は、使い慣れないゴルフクラブを、練習せずにコントロールすることである。


(続く)

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