いきなり始まるゴルフスイング(4)
(前の続き)
前回、著者は自らの経験を元に、英会話レッスンにおける根本的な問題について触れた。
著者の提案は、英会話レッスン最大の課題である「ヒヤリング能力の開発」と「発音スキル」の習得を一切せずに、英語話者とのコミュニケーションを確立する内容であった。
一説に1000時間以上必要とされるヒヤリング能力の獲得をキッパリ諦め、その代わりに職場でよく使うセリフを集め、それを英訳した文章群をプリントして準備しておく方法を起案したのである。
英語話者との接客時には、相手に伝えたいメッセージをそのプリントの文章郡から見つけて指差し、英語話者へはその下に英訳された部分だけを読み取ってもらおうという寸法である。
日本語とそれを英訳した文章郡が記載されたものを見た場合、日本人なら日本語で書かれた部分だけを読むだろうし、英語話者なら英語で書かれた部分だけを読もうとするだろう。そうやって互いに読むことができる文章を指差すだけで、ヒヤリングや発声を一切せずとも、英語話者との有効なコミュニケーションを実現できるのなら、英会話レッスンもどきの授業を受けるよりもずっと役に立つに違いないと著者は考えた訳だ。
通常の英会話レッスンによってヒヤリング能力を身に付けるに越した事は無い。だが、それを目指した国内の英語教育の散々たる結果を思えば、(著者の代替案は)革命的な改善の策となりうるかもしれない。
このブログでゴルフスイングの技術を語るべき著者が、なぜ国内の英語教育の問題を指摘するかと疑問に思うかもしれないが、先日英会話レッスンを経験した著者が実感した問題点は、ゴルフスイングの技術習得における問題点と大きく重なる部分があると、感じたのである。
英会話レッスンとゴルフレッスンの問題点を比べてみよう。
【現状】
①英会話のスキル習得の条件⇒大学受験レベルの英単語知識(2000語以上)と500文例に及ぶ英文の学習、さらに1000時間以上のヒヤリング、あるいは英会話の経験。
②ゴルフスイングのスキル習得⇒ゴルフショットの基礎知識を学習。最大14本のクラブを全て個別に習得する過程で、5千~1万球以上のショット経験。その後できるだけ短期間に10回以上のラウンドを経験すること。
【問題点を考察】
①上記のスキルを十分にこなすには、大きな経済的負担と定期的な時間の確保が必要不可欠となる。現実的にそれが可能なのは、仕事のスケジュール調整ができる富裕層だけである。(=暇を持て余した金持ち)
②レッスン以外でも、ゴルフ関連の店舗や英会話レッスンを組み入れている私立幼稚園など、富裕層向けに展開している産業は幅広く栄えているが、平均以下の所得水準の家庭で生まれ育った者は、それらの店舗を利用するだけでも不可能に近い困難さがある。
【結論】
平均以下の所得の人々でも上記の方法で成功するケースが稀にあるだろう。それは一握りの「天才」である。英会話レッスンなら特段にIQの高い人。ゴルフなら生まれながらに運動神経バツグンな体躯に恵まれた人である。
それらの例外を除き、凡夫な人々が上記のレッスン手段によってスキルを習得しようとすれば、例えばヒヤリング経験が100時間未満だったり、月1ゴルファーだったり、とにかく不十分な投資が原因で、成功と呼べるだけの学習結果を得ることができない結果に終わるものと推測される。
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結論が「格差社会の現状」みたいになってしまったが、著者の指摘はそれとは別にある。
このブログで扱うゴルフスイングの純粋な技術において、当初から著者が書き続けていたことは「純粋な技術」とは一体どのようなものなのか?という問いを「正確に定義すること」であった。
今回もその定義の一端を目指し、書いている訳である。
平均的IQの庶民が英会話をマスターするのは、ゴルフ技術を習得するより遥かに難易度が高い困難さがあるものと考えられる。大学受験の合否を目指す英語力なら貧困層にもチャンスが残っているかもしれないが、英会話のヒヤリング能力を、英語の参考書や問題集による学習効果だけで身に付ける事は、ほぼ不可能であるからだ。
ところが、この問題を思い浮かべる人々の脳裏には、前提条件として、英語話者とのコミュニケーションの手段が「普通の会話」だけをイメージしている奇妙さがあると著者は指摘する。
ゴルフの世界にも似たような慣習が定着している。
ゴルフ界における正規のPGAインストラクターによるレッスンでは「ゴルフはグリップから始める」といった言葉が常套句のように使われている。
歴代のプロゴルファー達が実戦を通じて進化させ続けてきた由緒正しいグリップの形に素人ゴルファーは憧れを抱き、その形を真似したがる需要もあるので、(技術を)供給する側のインストラクターも含め、ゴルフ界の誰もが「このグリップ型が正しい」と信じて疑う隙すらないという現状がある訳だ。
ところが、私たちは傘を使うときに手の形を気にしたことはない。
それでいてごく自然に、各々が持ちやすいように、傘を自然に持って用件を十二分に果たしている。
鉛筆や箸の持ち方は少し苦労して身に付けた筈だが、一度身に付いた鉛筆や箸の持ち方が汚いから「直すように」と指摘された経験がある人は、一度そのことを思い出して欲しい。
というのは、その経験者ならよく分かると思うが、人それぞれ特異に持ちたがる箸や鉛筆の持ち方を「綺麗な型」とかに合わせて修正しようとすると、想像する数十倍、あるいは数百倍の苦労が伴う現実があるのだ。
ゴルフでもそれは同じで、由緒正しいグリップ形を真似てゴルフスイングを習得しようとしたら、そのグリップに慣れるだけでも相当な年月を費やすことになる。
それでも人々がゴルフのグリップ型に執着する理由は、ちょうど英会話レッスンで「格好良いヒヤリングと綺麗なアクセントによる発音」に憧れ、慣れないネイティブっぽい言葉を扱いたがるのと似ている。
持ちやすいようにゴルフクラブを持って振った方がずっとやりやすい筈なのに、何故か人々は超慣れない、自分にとっては不自然極まりない「プロのグリップ型」を真似ることに努力の年月を費やそうとするのである。
そして、結果はさっぱり得られないのである。
(続く)