「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

このゴルフブログの趣旨について(4)

このブログは思想家・東浩紀の文体を真似ることで、その言葉に秘められている哲学的な思考の力を間借りし、一般的なゴルフレッスンでは見る事が叶わないゴルフ技術の違った側面を掘り起こしながら書き進めようとしている「純粋なゴルフ技術」の記録である。


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(前の続き)


「握手しよう」と意識するだけで練成されるのはゴルフスイング全体の一部分だけである。具体的にはアドレス(構え)からゴルフクラブを50センチほど右側へ引こうとする部分、専門用語でテークバックと呼ばれる部分だけしか練成されない。


ゴルフを始めた頃は、誰もが「ゴルフ競技で必要とされる全てのスイング」を生み出せる「究極の秘訣」を探し求め、練習に通いボール打ちに明け暮れる時期がある。残念ながらこの秘訣を見つけ出した者は、ゴルフ史上誰ひとり居ない。彼らが練習場で発見したものといえば、彼らがつぎ込んだボール代がゴルフ練習場の経営を成り立たせる上での「究極の秘訣」であったという事実の発見だけだった。


筆者が知る限り、この手の魔法的な「呪文」だけで完全なるゴルフスイングを練成できたゴルファーはひとりも居ない。ゴルファーなら誰しもが一度は夢見るこの手の「魔法レベルの秘訣」は、長い年月ゴルフに接していくと、それは存在しないものなのだと、確かな確信と共に「究極の理解」として達成されてしまう様子なのである。


ゴルフスイングの世界にサンタクロースは居なかったと知る日が来るのである。


さて、この手の「秘訣」でゴルフ史上最も有名な話は、ベン・ホーガンの「シークレット」である。


ベン・ホーガンは1950年代、当時のゴルフ界ではありえないレベルの、まるでゴルフを極めてしまったかのような完璧なプレーをし始め、それから何年も後にもそのレベルが維持され続ける奇跡が続いたのである。ゴルフを知らない人にはちょっと分かりにくいかもしれないが、ゴルフの世界でそのように完成されたプレーができるのは、現在のプロでさえ全盛期の1~2年だけである。そのように短期間に集中してしまうのが普通で、それ以外の精度はボチボチといった印象のものに落ちてしまうのである。


他のスポーツはどうかは知らないが、ゴルフの世界ではホーガンのように現役時代を通じてずっと最高難度のレベルを維持させ続けたというケースはほぼ皆無に等しい。


だから当時の人々は、彼がとうとうゴルフにおける「究極の秘訣」を発見したのだと思い始めた。それから60年以上経った今でも、彼を知るゴルファー達の間でその伝説は語り継がれ、信じられ続けている(私もそのひとりだ)。そのような意味においてもベン・ホーガンは唯一無二の特別なゴルフマスターなのである。


実際のホーガンは、現役当時から話題となっていた「究極の秘訣(シークレット)」を一般公開する機会を何度も設けた。その中のひとつにバイブル的な指南書となった「モダンゴルフ」の執筆活動がある。


当時のゴルファーはホーガンがその「モダンゴルフ」に秘訣の全てを書き記すものだと期待した。ホーガンも持てる技術の全てをそこに結実させる気概で製作に取組んでいた様子であるが、完成した「モダンゴルフ」を人々が手にした時、多くの人々は期待を裏切られた気持ちになる結果に終わった。


そのモダンゴルフに書き記されている技術はあまりにも難解だったのである。それを読んだ当時のゴルファーの殆どが「これは秘訣ではない。ホーガンはきっと本当の秘訣を隠したまま、我々を煙に巻いたのだ!」と詐欺に遭ったかのように憤慨したのである。


人々はごく簡単なコツひとつだけで、完璧なスイングを練成させうるのだと期待していたのだろう。だから難解なモダンゴルフを否定したのである。


実際にホーガンはそのような「魔法のコツ(=シークレット)」を発見した訳ではないだろう。確かに「モダンゴルフ」の著書の中に、アドレス時の姿勢を「椅子に腰掛けようとする」といったアドバイスで導いたりはしているが、スイング全体を「秘訣ひとつ」で完成させるような構成には断じてなっていない。


筆者も繰り返し読んでみたが、やはりモダンゴルフはかなり難解な技術書であると思う。だから、もしホーガンの技術に「シークレット」的なものがあったとすれば、以下のように解釈するしかないだろう。


本にある通りの難解な技術をひとつひとつ丁寧に実践し、その全体の動作を5千とか1万といった回数繰り返す事で、これらを構成する多大な要素(動作)のひとつひとつが「とあるひとつの自然な動作」として調和される瞬間が訪れる。その瞬間に起きる変化があまりにも劇的である為、周囲からは「彼がとうとうゴルフの秘訣を発見した」と誤解してしまう。


つまり、反復練習がとある膨大な回数にまで及ぶと、それまでとは全く次元の違った高度なレベルでのスイングが練成される。そのような「化学的な変化」の時期は誰にでも必ず訪れるのかもしれないが、当時はそこまでの練習量をこなすだけのゴルファーが皆無だった為、人々はホーガンだけが知りうる究極の秘訣があるのだと誤解した。それがベン・ホーガンのシークレットの真相である、というのが筆者の推理である。


これはホーガンだけに留まらず、現在のPGAインストラクターのゴルフレッスンにも多く採用されているスタイルである。


長くなったので、ここまで。それでは!

このゴルフブログの趣旨について(3)

このブログは思想家・東浩紀の文体を真似ることで、その言葉に秘められている哲学的な思考の力を間借りし、一般的なゴルフレッスンでは見る事が叶わないゴルフ技術の違った側面を掘り起こしながら書き進めようとしている「純粋なゴルフ技術」の記録である。


では早速、前の続きを始めよう。


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(前の続き)プロのインストラクターにもそういった「練習あるのみ」といった感情論的なものが関係しているだろうか?


たしかに企業努力として考えれば、そちらの方が都合良い(儲かる)。生活の糧を得る為の仕事としてインストラクター業を考えると、「簡単・格安・最短時間でマスター可能なゴルフ技術」の存在は、それが一旦社会的に広まってしまえば死活問題にも繋がる恐れのある事態だといえる。


ところがゴルフのインストラクター業は、この「簡単・格安・最短時間で良いショットを生み出せます」といった「練習無用」の方向性から逸脱してはならない企業努力の義務が課せられている特殊な職種でもある。


もしその企業努力を怠れば、市場原理の法則で他の競合相手に顧客を奪われてしまう恐れがある。仮にインストラクターが無用にダラダラ引き伸ばすようなレッスンをして、練習生の真なる成長を阻害しようとしたら、(引き伸ばした分だけ儲かるかもしれないが)顧客はやがて逃げてしまうだろう。


一方でPGAのインストラクターが教えるゴルフメソッドの大半は「とある静止状態、あるいは運動状態の感覚を体で覚える」といった方法で全体を構成している。だからスイングする感覚を体で覚える為の「多大な練習量」が成長する為の絶対条件となっている。


この「体で覚える」という部分をさらに解析していく。


例えば、アドレスからバックスイングを始動する体の動き方を「右側に居る人と握手しようする」だけで、その捻転動作のポイントをゴルファーから効果的に引き出せる魔法のようなコーチ法がある。


これは名匠ブッチ・ハーモンが全盛期のグレッグ・ノーマンに伝えたスイングの秘訣のひとつである。当時のゴルフ雑誌に載っているのを読んで筆者は知ったので、年配のゴルファーならご存知の方も多いと思う。


とにかく一旦試してもらえれば分かると思うが、アドレス時のゴルファーが自分の右側に人がいると想像して、その人に対し「握手しよう」と意識するだけで良いのだ。これを実際に試すと、体全体が「とある運動状態」へと劇的に変化する現象が現れる筈だ。


重要なのは、これによって導き出された運動状態が、繰り返し練習によって「体が覚えた動き」を再現したものとは明らかに違う点にある。


ただ「握手しよう」と意識するだけで動き(捻転動作)が発現するのだから、繰り返し練習の積み重ねで練成させたものである筈も無い。一体何が言いたいのかというと、一般的なゴルフレッスンに含まれている技術は、以下2つの要素に分けられるという事だ。


① 「握手しよう」と意識する程度で導き出せる「練習無用の動き」
② 「無数の反復練習で慣れる」ことで達成される動き。


私たちはスポーツする際、反復練習を繰り返して、成功の感覚を体に染込ませようとする。スポーツ上達の道は、それ1本しかないと無意識的に信じているのだ。


長くなったので、今日はここまで。ではまた!

このゴルフブログの趣旨について(2)


(前回の続き)このゴルフブログは思想家・東浩紀の文体を真似て書き進めるから、思想家特有の暗く重たい哲学的な雰囲気で語られるゴルフ話に違和感を覚えるかもしれない。実際、思想家がゴルフの話をする訳もないから、ことさら変に感じられるのだろう。


それは仕方がないが、このような哲学的思考でしかアクセスできない技術的な側面が、ゴルフの中にも存在していると、私には感じられる。


だから、思想家・東浩紀の哲学的思考の力が秘められている言葉を借りる(真似る)ことで、一般的なゴルフレッスンでは見る事が叶わない、ゴルフ技術の違った側面を見ることができるかもしれない(私自身もそれを期待しながら書いている)。


あまりハードルを上げ過ぎるとやりにくくなるので(笑)、早速始めたいと思う。


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このブログでは「純粋なゴルフ技術論」だけを扱っていく。ボールをより遠くに飛ばす秘訣などといった人目を引きやすい無粋な要素はできるだけ排除して、ただひたすら弾道をコントロールする為の精度だけを求めた純粋なゴルフ技術だけを扱っていく。


「純粋」という言葉を使ってまで定義しようとしている部分に着目してほしい。


私のように偏屈で理屈っぽい人間にとって、ごく一般的なゴルフレッスンで使われている言葉には、定義しようしている技術の要素をかなり曖昧に、時に論理破綻させてしまっている場面がよくあるように感じられる。


例えば、テレビのゴルフレッスン番組などでプロゴルファーが打撃技術の説明をした後、最後のまとめで「とにかくボールを沢山打つこと。何事も練習あるのみです!」といった決まり文句で締めくくる場面に遭遇することがある(本当によくある)。


それの何処が変なの?と不思議に思うかもしれない。それはまったく普通の反応であるが、私にとっては問題があるように感じるのだ。「技術とは何か?」といった本質的な問いを考えるなら、この言葉に含まれる問題点を決して見逃せない。


どれだけ優れた技術でも、現実のゴルフではミスショットが必ず生まれる。それは仕方がないが、そのミスの原因を「練習不足」といった解釈の枠に入れてしまうと、それが癖になると、そのミスに含まれる「本質的な原因」を捜し求めようとする眼力や思考力が弱まってしまう危険性がある。


そう言われてみれば素直にそう思うかもしれないが、往々にして人々は失敗した際に「一杯失敗して恥をかくのが大事だよ」といった、本質的な原因とは明らかに無関係な要素、特に罰則的な要素だけをアドバイスしたがる。練習不足という言葉の意味も「もっと努力する罰を与える」という意味でしか使っていないのである。


確かに練習不足がミスの原因の一端を示すことは多い。だから「練習不足」はオールマイティ的にミスの原因として成立しうる可能性があるのだろう。しかし、そのオールマイティな便利さが、本質的なミスの原因を突き詰めようと思考を邪魔するマイナス因子として働いてしまう危険性があることに、気が付けなくさせている側面もあるのだ。


少し分かりにくい話かもしれない。これについては、前の話で出したような「PGAのインストラクターから正式なゴルフレッスンを受講し、潤沢な練習時間とラウンド経験を積み重ねてレベルアップを果たしたアマチュアゴルファー」を想定してみると分かりやすくなる。


飽くなき情熱を傾けるアマチュアゴルファーが居たとする(※想定)。


彼にとってゴルフとは人生そのものである。これまで彼はあらゆる犠牲を払ってゴルフのスキルアップの為の努力をし続けてきた。彼の家の財政が傾く寸前までゴルフをする為の資金をつぎ込み、彼が自由に使える全ての時間をゴルフの為に注ぎ込んできた。その甲斐あって、彼は「ハンデゼロ」のトップアマまで登り詰めたのである。


そんな彼の目前で、いつも一緒にコースをまわる相方がいつものミスショットをする。彼の相方もかなりのゴルフ好きで腕前もシングルクラスだが、彼ほどの犠牲を払ってまでゴルフをしている訳ではなかったから、ゴルフの腕もシングルになったところで停滞していた。


つまり、人生の全てをゴルフに捧げているトップアマの目前で、それほどでもない相方がミスショットした訳である。この現象を目前としたトップアマの彼が脳裏に浮かぶことは大体想像がつくと思う。(とても簡単なことだ)


彼の脳裏に飛来したのは間違いなく「これだけの練習時間と金を費やしてきた俺に比べ、あいつがゴルフに投資した量は全く足りていない」という損得勘定である。


「俺のほうがずっと苦労(損)している」


そして彼はそこから浮かんだ言葉を口にする。いわゆる「練習不足」という言葉は、裏返せば「自分がつぎ込んだ努力量に比べて、彼の量はまったく足りていない。」という損得勘定から生じる「嫉妬心」なのである。


彼は努力量が自分とは程遠い相方を「楽させて上手くなって欲しい」とは思っていない。それどころか、「何でこいつは俺に比べて苦労しようとしないのだ?(なぜ俺より楽しているのだ?)」といった嫉妬の感情が心を支配してしまうのである。


そういう怒りの感情である「嫉妬心」は、本来ならあった筈の彼のナチュラルな思考力を完全に奪ってしまうのである。


苦労の末に掴んだゴルフスキルと同等の結果を得たいのなら、彼(相方)は自分と同等の苦労を背負うべきだ思う「平等心(=嫉妬心)」を感情論的に唱え始める。そして本当は存在しているかもしれない「本質的なミスの原因」を探らせまいと、彼の怒りの感情が彼のナチュラルな思考を邪魔してしまうのである。


逆に、もしそのミスの「本質的な原因」を突き止めることによって、それまでトップアマの彼が積み重ねてきたゴルフへの多大な投資や数々の苦労をまったく必要としない、斬新かつシンプルで理にかなったゴルフ技術が開発されたとしたら、苦労を重ねてそれを手に入れた彼はどう思うだろうか?


それによって相方がいつもしているミスをいとも簡単に、完全無欠に、撲滅させてしまったらどう思うだろうか?


恐らくそのトップアマは「これまで自分が積み重ねてきた苦労は一体何だったのか?」と苦悩して不幸な心を背負い込むに違いないのである。


誰だって自分が注ぎ込んだ多大な情熱や投資、苦労の積み重ねを否定されたくはない。苦労の積み重ねで練成されたゴルフスキルを、簡単・格安・最短の方法であっさり抜かれたくは無いという損得勘定(=感情)は、人としてある方が普通だからだ。


故に彼は無意識的にその由々しき事態を回避したいと願うだろう。


あらゆるミスの原因を「その人が自分より少ない投資しかしてこなかったから」という投資の量の違いだけで理解を埋めてしまおうとする。そしてさらに、本質的な問題点は決して見えないように、間違っても発見しないように、無意識的に盲点とそれを重ね合わせ、見えなくしてしまおうとする。


そのような「思考の落とし穴」を自ら作り上げ、自分からその穴に落ちてしまう。それは全て無意識的な行為だから、彼ら自身すらその事実に気が付くことできない構造的な状況に陥っている訳である。


この由々しき現象は、アマチュアゴルファーに限った話ではない。


長くなったので、この続きは次に持ち越すことにしよう。ではまた!