「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

このゴルフブログの趣旨について(1)

23歳から唐突にゴルフを始めた私も今年で49歳。ゴルフ暦は単純計算で25年となるが、実情は少し違う。というのは、40を過ぎた頃から経済的事情を主な理由として、私はコースでのラウンドを一切止めてしまったのである。


ラウンドといっても月1ゴルファーに過ぎなかったが、それをさらに年1回に減らすという選択肢は考えられない。当時の私はゴルフをする最小のラウンド数を月1だと思ったのである。


今でも練習場で月1、2回ほどボールを打ちに行くが、月に1回だけラウンドする「月1ゴルファー」ではなく、「練習場だけ月1のゴルファー(笑)」であるから、カテゴリー分けされるなら、今の私は「ゴルフをしない人」に振り分けられるだろう。


今年から私立大学に通う娘が4年後そこを卒業し、その奨学金(借金)の返済をすっかり終えた後、つまり今から7~8年後の未来の話であるが、娘が順調に社会人として働き始めていたら、我が家の経済事情は一変する。再び芝の上でゴルフボールを打てる経済的な余裕が生まれるかもしれない。


実に15年ぶりのラウンド再開。想像するだけで胸はキュン! 見開いた瞳はキラキラと星が輝いている。


という訳で、50過ぎの「夢見るオヤジ像」はキモイという他ないから、現実的なラウンド再開の姿を想像してみよう。「15年以上コースをラウンドしなかった人」がいきなりゴルフコースをラウンドする訳だから、その日のゴルフは地獄に落ちた「ゴルフ地獄絵図」の展開となってしまう筈だ。


15年ぶりのラウンドがどれだけ無謀な行為であっても、いっぱしのゴルファーとしての自意識(プライド)だけは残っているから、地獄絵図に映るような未来の私を想像すると、ゴルフ再開に向けて二の足を踏みそうな気がする。


もちろん、これは私に限ったことではない。


今の日本のゴルフ界には(私のように)経済的な事情から10年以上ゴルフをしなくなった人が大勢いる。例えば子供の養育費が原因だとしたら、その子が成長して働き出す頃に経済的な問題が解決するかもしれない。


だが、10年以上キャリアがあるゴルファーが10年以上ラウンドから遠ざかってしまっていたら、再びコースに戻る際に様々な「壁」がある。精神状態や体力、ゴルフにおける交友関係の修復、練習量、道具の準備不足等々が足かせとなって、再開しようとするゴルファーの気持ちを萎えさせる。そうなると、いよいよ本格的にゴルフから足を洗ってしまおうとするかもしれない。


ところが、ラウンド再開を目指すゴルファーにとっての本質的な問題は「ゴルフ技術の衰退」なのである。


というのは、ゴルフにおける十分な技術力と揺ぎ無い自信があれば、当然モチベーションは高く維持されて、ラウンドを再開しようとするゴルファーの背中をこの上なくなく後押しする。そうなると後は些細な問題に過ぎない。揺ぎ無い自信による蛮勇は、些細な枝葉の問題を次々に粉砕するパワーを生むからだ。


逆に技術的な自信が決定的に失われていたら(今年引退する宮里藍を引き合いに出すようで申し訳ないが)モチベーションが損なわれてゴルフを辞めたくなるかもしれない。私たちゴルファーが「ゴルフをしたい」と思う気持ちの正体は、実は「確固たる技術力」とそれに伴う「揺ぎ無い自信」が発揮されている状態が保たれているからなのだ。


だから7~8年先にゴルフを再開するであろう「未来の私」に宛てて、「練習場だけ月1のゴルファー(笑)」である今の私は、その未来のラウンドで必要とされるゴルフ技術をこれからこのブログに記録し、手紙にして送ろうと決めた。


これがこのブログの大まかな趣旨となる訳だが、一般素人に過ぎない私が(これはネタバレだが)プロの技術をも否定するかのような自己流のゴルフ技術を展開しようとする訳だから、これはある意味とても反抗的で野心的な行動である。


たとえば、十分なお金と時間を費やし、PGAのインストラクターから正規のゴルフレッスンを受けて、真剣にゴルフをされているアマチュアゴルファーが居たとしたら、私の自己流ゴルフ理論は、そういったゴルファーの努力や投資を否定する意味として成立してしまう危険性がある。


それゆえ、熱心なアマチュアゴルファーの方々から拒絶的な反応が返ってくる恐れもあるだろう。


既に気付かれている方も居られるかもしれないが、「15年ぶりのラウンドでさえ通用するゴルフ技術」というのは、ゴルフ技術の「本質的な部分」を示している、とも解されるのである。


「ゴルフの打撃技術の本質」とは、いきなり素人には大胆過ぎるテーマだと失笑されそうだが、勿論このブログの内容はそれだけではない。そんな破壊的な部分を抜きにして、アベレージゴルファーが暇つぶしに読んだとしても、それなりに楽しめるような、読み応えのある長編ゴルフ書にするつもりだ。


だから、感情論抜きに解釈して頂けるなら、このブログが「あらゆるゴルファーに楽しんで貰うこと」を目的に書かれていると感じて頂けると信じている(そう希望している)。


ダラダラ書きついでに、加えておきたい説明がある。


それはこの「態度の悪い言葉使い」についてである(笑)。


既に「何でこんなに偉そうに書くのだ!」とお怒り方も居られる筈だから、理由を説明しておかねばならない。


この偉そうな言葉使いは「普段の私」が使っている言葉ではない。普段の私は安月給なサービス業種のサラリーマンに過ぎない。いつもの職場ではお客様に接する丁寧な敬語を主に使っている。だからそういった敬語を使った文書だって書けるのだが、あえてそうしていない訳だ。


その理由は「このブログを読む人から1円も頂くつもりもなければ、プロのブロガーやユーチューバーのように、視聴者数に応じて広告料が入るシステムで儲ける訳でもない」という単純なものである。


これを読む貴方は私にとって「お客様」ではない。将来的に私がこれを本にする気が毛ほどもあるのなら、その印税によって徴収可能となる未来のお客様として拡大解釈し、今から敬語を使う道理だって成り立つかもしれない。が、そんなつもりは毛頭ない。


そんな私が「いつもこのブログを閲覧して頂き、心から感謝しております。皆様方が楽しんで頂くことを念頭に、日々執筆活動を邁進し続けておりますので、今後も引き続き当ブログでお楽しみ頂ければ幸いです。」などと書けば、正直読んでいる人は「キモイ!」と感じるに違いない。あるいは「宗教の勧誘?」と不安な気持ちが出てしまうかもしれない。


読み手から一切の施しを受ける気も無いのに、過剰な敬語で書き綴る行為は、読み手に薄気味悪い印象を与え、将来的に読み続けるのを辛くさせてしまう可能性が高い。


原因のひとつは、その敬語の中に「決定的な嘘」が含まれているからだろう。お客様でもないと分かっているのに「敬意を抱いています」などと自分自身をも騙し続ける不正な行為の先に、書き手と読み手の心身それぞれに、ある種のストレスや疾患を負わせてしまう危険性がある訳だ。


人間、そんな健康に悪い「嘘つき」を続けて良いことはひとつもない。


だから正直に書きたいことを、媚びることなく堂々と書いていくスタイルの方が、先々の書き手と読み手の心身にも良好に作用するだろうと思ったのである。そうした理由から、この「我がままで偉そうな言葉」を採用しようと決めたのだ。


勿論、この言葉使いは私生来のものではない。この言葉のモデルは思想家の東浩紀(あずまひろき)の著書「一般意思2.0」に由来する。機会があればアズマンの愛称で人気の思想家の書を一度手にとって読んでみて頂きたい。東大出身の鬼才は、自身の切れ味鋭い思想を見事なまでに体現している表現の練達者でもある。


彼のような「切れ味鋭い言葉」の使い方は、私が自己流ゴルフ技術を表現する上でも最適である。だから彼の文体と表現をそのまま真似る形でブログを書き進める手法にしようと思いついたのも、大きな理由のひとつである。


といっても、これはどうしても生理的に受け付けない人も居るだろう。もしこれらの理由が分かっても、このブログの言葉に不快な反応しか感じない様なら、今後このブログを開かないことをお勧めする。


もちろん出て行くことをお勧めしている訳ではない。そのような方は、社会問題にもなっているSNSの言葉使いが、あくまで表面的なものに過ぎないという事実も知っておくべきだと、私は思うからだ。


日々のネットの上で氾濫している「人を傷付ける偉そうな言葉」の数々も、実際にそれを書いているリアルな人間の像は、ごく普通の優しげで日本人っぽい姿形をしている庶民に過ぎない。素朴で愛らしげでもある日本人固有のシャイネスな彼らが、ネット上では巨大化したモンスターのような悪いイメージを生む言葉を使っている。


だが、それもあくまで表面的なものに過ぎないと、キチンと知っておくべきだ。



あ、初回にしては長くなり過ぎたので、今回はこれで終わり。ではまた!


(毎回、こんな感じで書いていきます。)