「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

いきなり始まるゴルフスイング(3)

(前の続き)
ゴルフの話とは直接関係ない話にいきなり脱線するが、ごく最近私の会社では、社が主催する英会話レッスンが開催された。


全社員はこの英会話レッスンを必ず受講しなければならない。といっても半年に1回だけで、レッスン料も無償である。だからではないが、プロの英会話教師を雇うのではなく、当社の上司が講師役を担う形でレッスンは開催された。講師役に抜擢された上司は特に外国語大学の卒業生という訳でもなければ、英語圏のお客様と接する機会の多い職歴だという訳でもない。


著者はその上司をよく知る仲ではないが、恐らく(彼は)そういった英語とは無関係の職場で働いている「ごく普通に英語の苦手な50過ぎのオッサン」であると認識している。


だからその上司が講師役を請け負ったのも、社の命令に逆らえず「イエッサー!」の返答しかできない「体育会系の社風」によって、シブシブ引き受ける羽目になっただけだと思うのだ。そして、そのトホホな英語講師から半年に1回だけとはいえ(我々平社員は)英会話の授業を受講しなければならない羽目になった訳である。


といっても、バリバリの英会話講師を雇われても困るのだ(笑)。


なにしろ半年に1回程度のレッスンでは効果ゼロの結果が見え見えだし、会社もそんな無意味なレッスンにお金を掛ける訳も無く、こういった受講する社員側の空気を反映させる形で「社長の命令通り、英会話レッスンを実施しました!」と報告するが為だけの「なんちゃって英会話レッスン」にしたのだろうと思う。


(健全な判断である。)


平社員に察することができる企業の諸事情はこの程度であるが、こういった話はなにも我社に限ったことではないだろう。


国内の中高生が受けている英語教育もさほどの効果が出ない点では似た様な匂いがする。そういえば、もうじき小学校で本格的な英語教育をスタートさせるらしいが、国内で絶えずグローバル化が叫ばれる昨今、政府や企業は日本国民の英語能力を引き上げようと、毎年のように教育改革を叫び続けていた筈なのである。


だが、その結果は著しくない様子である。だから毎年教育改革が叫ばれるのだろうが、国内の英語教育における「悪しき構造改革の実態」は、おおよそ我社で発生した「なんちゃって英会話レッスン化」と重なる気がしてきたので、このことについて今回は色々書いみたいと思う。


私が受講した英会話レッスンでは、使われた英文は全て本社が予め用意したもので、本社が雇ったプロの英会話講師に作成を依頼したそうである。雇い入れた英会話のプロに、各職場で使いそうな文章を沢山英訳させて、その訳文を使って行う「よくある英語の授業風景」を構成したのである。


だから、教材として使う英文そのものに関しては実用性の高い本格的なものであると言える。もしこれが、グーグル等の自動翻訳機で出力した英訳文を使うのであれば、ネイティブの英語話者に通用するのか疑問であるから、この本格的な英訳の文章は各現場においての価値も高いものであると言えるだろう。


問題はそれら価値ある英文の使い方である。


「なんちゃって英会話レッスン」と揶揄した理由は、その授業を受けている(平均年齢50過ぎのオッサンだらけの)社員ら全員で「May I help you ?」などと合唱し始めたことにあるのだ。(笑うな!!)


勿論、オッサン講師の発音は(我々と同じレベルなので)全くダメだから、発音の見本として幾らかマシだと思える「スマホの翻訳機で英文を発音させる」ように工夫はされていた。さらにそのスマホ音源をスピーカーで教室全域に響かせる機器を準備していた上司の心意気は、素晴らしいものであるのだろう。


では何が問題だったのかというと、我々オッサンらが英文を合唱した「効果」のほどである。50過ぎのオッサン集団が「May I help you ?」などと合唱して、それを10年続けたとして、はたして英語が使えるようになるだろうか?(ならねーよ!!)


仮に10年後に出来たとしても、10年も待たねばならない訳である。50過ぎのオッサンならそろそろ定年が見え始める頃にようやく、という訳だ。故に50過ぎのオッサンが教室に集まって「May I help you ?」などと合唱する努力行為の価値は、事実上ゼロにしかならない。結果はハッキリしている。


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もし貴方が本格的な英会話能力を身に付けたいと思うのなら、毎日英会話教室に通う必要があるだろう。情熱に見合うだけの潤沢な資金と時間を投資できるなら、それなりの結果だって期待できるかもしれない。


だが、多くの日本人にとって、英会話能力を身に付けるのに必要十分な投資ができる状況では無いというのが現実だ。企業だってそれは同じで、全社員に英会話能力を身に付けさせたいのは山々だが、十分な資金を確保することが難しい訳である。


だが、この問題の本質は、そういった資金調達の問題を「無いこと」にして「なんちゃって英会話教室」といった形だけのものにして済ませてしまう「体育会系のノリ(空気)」にあるのである。


十分な資金や時間の投資ができないなら、教育内容を根本的に変えなければならない筈である。だが、そういった方向に思考は働かない。(何故だろう?)


例えば、英会話のヒヤリング能力を身に付けるには、一説には1000時間以上のヒヤリング経験が必要であるといったデーターもある。だが日本国内に留まる日本国民にとって、1000時間以上の英会話をヒヤリングする経験を積むことは容易ではあるまい。ごく普通の日本人の環境下では、それは途方も無い苦労を伴うか、もっと言えば「不可能だ」と断言しても良い位である。


(こういった現実を直視せず、とにかく上からの命令だからやれと言われて「イエッサー!」と返事させると、我社でも発生した「形だけ」のなんちゃって化現象が蔓延ってしまうのであるから始末に終えない。)


これが日本固有の悪しき現象であるかは不明だが、この問題がゴルフ技術習得の問題とも重なっている部分があると、著者は考えている(ようやくゴルフの話と繋がった)。だから、この先の英会話能力の話は、ゴルフ技術の習得と照らし合わせて読み進めて頂きたい内容だと思って読んで欲しい(笑)。


我社の「なんちゃって英会話レッスン」の欠点は、ごく一般的な英会話の授業に似せようとした点に問題があるのだと言える。


1000時間以上のヒヤリングを積み重ねる努力は、ごく一般的な日本人にとって「困難」の文字を越えて「不可能」なのである。そう断言してしまえば、そもそも職場で英語話者の顧客が来た際、彼らの英語を「ヒヤリングしようとはしない」のである。


ヒヤリングせずに、どうやって仕事をするのだろうか?


簡単である。英語のヒヤリングができなくとも、コミュニケーションを組み立てる方法は他に幾らでもあるのだ。


考えてみて欲しい。


例えば、耳の不自由なお客様が来れば(もし日本語が通じる方なら)誰でも紙に文字を書いて意思の疎通を図ろうとするだろう。日本人でなければ写真や絵を使って、あるいはジェスチャーなどで相手にメッセージを伝えようと必死になるだろう。


よって、著者が考える現実的に有効なコミュニケーションの手段は、普段の日本人のお客様とのやりとりで良く使う文面を予め書き出し、それら全てを英訳して準備を済ませてしまう方法である。


そして、もし英語話者のお客様が来たら、その英訳した文章が並んでいるプリントを見て、伝えたいメッセージに合った英文を「指差し」して選んで頂くのである。たったこれだけの準備で、確実なメッセージの交換を可能とする「有効なシステム」の構築が実現できる訳だ。


さらにこちらが返答する際によく使う文章も予め沢山英訳してプリントしておけば、それを使ってこちらが指差しにて返答し、相互に確実なメッセージの交換をして、会話として成立させることが十分に可能だという訳である。


この「英文プリントの指差し英会話システム」の良さは、こちらに一切のヒヤリング能力が備わっていなくても、英語話者のお客様と有効なコミュニケーションが可能となる点にある。このシステムを扱う程度の能力なら、半年に1時間程度の講習会で少し練習すれば、十分に養えるだろう。


英語が普通に苦手な企業の上役らは、色々と工面して「英会話レッスンっぽい事」をやりくりしようとするが、それだと「事態を誤魔化しているだけ」のような結果を生む元凶となるのである。


その真摯な姿勢には敬意を表さねばならないが、それ故この悪しき構造の元凶となっている点には気が付きにくいのかもしれない。


さて、次回はこの英会話の話をゴルフスイングの習得に照らし合わせて考えてみよう。
(続く)

いきなり始まるゴルフスイング(2)

(前の続き)


前の話で著者は「地面に対してスイングするのが正解」であると大胆に宣言した。宣言した以上、その説明責任を果たさねばならない。大胆な宣言をした著者には、それが「強い義務」のように感じられているからだ。ところが、その説明の文章を思い浮かべていると、目が点になってキョトンとしている読者の顔が思い浮かんだ。


もしこれまでの話にまったく付いて行けていない読者がいたとするなら、そのような読者向けの説明を先にせねばなるまいといった、「強い義務感」が著者の心を揺り動かしているのであろう。という訳で先を早く知りたい読者の方が居たとするなら、申し訳ないがしばし待って頂きたい。


まずは困惑してキョトンとしている読者に対しての説明を始めさせて頂きたいと思う。


さて、困惑している読者がどのような様子なのかは、著者にも大体は想像できている。このブログの技術話が、あまりにも普通のゴルフレッスンなどとは違っているからだと思う。ごく普通の読者がごく普通のゴルフレッスン的な話題をこのブログに期待していたとするなら、おおよそ以下のような感じで困惑してしまうに違いない。


「あの―――・・地面に対してとか、訳分かんないです。それよりゴルフクラブをどうやって握ったらいいか?教えてください。」


あるいは「地面よりも先にターゲットを確認すべきでしょう?」、はたまた「クラブの番手を先に決めなければダメでしょう?」といった感じかもしれない。


通常、ゴルフでは先にターゲットを確認して、これから打ち出すショットに必要な距離を割り出しておく計算が必要である。距離が割り出されたら使えるクラブはせいぜい3本以内に絞れてくる。ゴルファーはその中から最終的に使う最適のクラブを選ばなくてはならない。最終的に選んだその1本を手にして、いよいよゴルファーはスイングを開始するのである。


ところが、そうやってターゲットを確認する前に、必ずゴルファーはボールがある地点の地面の状況をよく確認しなければならない。ボールが置いてある地面のことを専門用語で「ライ」と呼ぶが、この「ライ」の状況によってゴルファーは打ち出せるショットの種類に制限が加わるからである。


(例えば)雑草が生い茂るライを「ラフ」と呼ぶが、そのようなトリッキーなゾーンにボールが隠れるように置かれていると、そこからゴルファーが使えるショットの種類はかなり制限されてしまう。そのようなラフからのショットでは、時に必要な飛距離の半分も出せない可能性もある。飛距離がそれだけ短くなれば、ターゲットの向きも変更を余儀なくされる。ゴルファーがどれだけグリーンに向って打ちたくても、それを我慢して半分の距離近くにあるフェアウェイに向って、ターゲットの方向を30度も右へと傾けなければならない場合もあるのがゴルフである。


故に、クラブの番手選択や打ち出すショットの飛距離計算も、まず先にボールが置かれているライ(地面)の状況を見てからでないと、何も決められないのである。だがこれは何も段取り的に要領が良いから「地面を意識しなさい」と言っている訳ではない。


ターゲットから逆算するように、順序を逆に見積もりを立てるような皮算用でゴルフを組み立てるプロも居ると聞くが、ゴルフ技術としては根本的に間違いを犯していると著者は指摘しているのである。


例えば「あらゆるゴルフスイングはグリップから始まる」という技術体系があるとすれば、大抵の場合、それはベン・ホーガンの「モダンゴルフ」の影響を強く受けた技術体系の系譜であると判断できる。


ベン・ホーガンは歴史的な技術書である「モダンゴルフ」を通じ、ゴルフはグリップから始めるものであるという決定的なメソッドを後の世に残してくれた。


偉大なベン・ホーガンほどのゴルファーならば、なるほどゴルフクラブをグリップした瞬間に、そのクラブをどのようにスイングするのかが、「実感」として沸き起こってしまうに違いないのだろう。


つまり、ベン・ホーガンほどのレベルになると、ショットを打つ前に、選択した番手のクラブをグリップした時点で、既にスイングは彼の体内にハッキリと完成した形で実感されている訳である。


その実感は、これから打ち出す筈のボール弾道の行方さえも、(グリップした瞬間に)既に感覚として感じ取られているに違いないのである。


故にホーガンは、ゴルフクラブをグリップした時点で、その後どのように構え、ショットを打つべきかを、実体験済みの様子で全て知ってしまっている。後はその実感通りの流れに逆らわないように振舞う様子で、あらゆること全てが自然に成されてしまう訳である。


確かにそのような神的なレベルのゴルフが実在することは想像に難くない。


とある達人レベルに達すれば、ゴルフコースの様子をただ感じ取るだけで、次に自分が何をするべきかをハッキリとした実感を伴って感じられて、それをそのまま実行に移せるだけのゴルフをできるようになるのかもしれない。


        ――――だが、ちょっと待って欲しい。


その達人級のゴルフが出来るようになるのに、一体どの程度の頻度でゴルフコースを回らなければならないのだろう? ゴルフクラブを握った瞬間に全てが分かるようなレベルになるのに、月1回のラウンドと週1回程の練習しかできない素人ゴルファーは何十年の歳月をゴルフに費やさねばならないのだろう?(20年?それとも30年?)


古くモダンゴルフにある「Five Lessons of the Modern Fundamentals of Golf 」の5つのレッスンの1番目にある「ゴルフはグリップから始める」という技術体系は、現在のPGAのレッスン体系とも深く関わっているが、その「記憶系」の技術体系は、月1ゴルファー向けに開発された「本質的な技術」を開示している訳ではない。


それでは、月1程度のアベレージゴルファーはまず先に何から始めるべきなのか?


それこそ、今ここで著者が「ゴルフは地面を意識することから始める」と提言する、真新しい技術体系の本質そのものなのである。


例えば、これまでゴルフクラブを一度も握ったことがない初心者ゴルファーが居たとする。


これまでの「記憶系」の教え方では、まず初心者に対してまったく不慣れである奇妙なゴルフグリップの型を教えることから始める。違和感しかない奇妙なグリップで、初心者ゴルファーはひたすら失敗を繰り返しながら、ヨチヨチ歩きのゴルフ人生がスタートするのである。


著者の場合は全く違う道筋を、その初心者ゴルファーに提言する。


「まず、ボールの置かれている地面をよくよく意識しなさい。」


(こんな奇妙なレッスンがあるだろうか?)


(ネタバレだが)この言葉の意味は、その先のグリップもアドレスもバックスイングもトップも、まずその「地面を意識する」ところをスタート地点にしなければ決して前に進めてはならない、といった戒めの意味も封じ込められている。


確かに(地面を意識していないのに)真っ先にグリップさせてしまう方法もあるだろう。それはもしかすると、ゴルフで最もポピュラーな技術体系のメソッドなのかもしれない。


だが、それは達人ベン・ホーガンの歩んだような、何十年もの研鑽を積み上げようとする熱心なゴルファーにだけ通用する道なのかもしれない。もし貴方が月1ゴルファーで、それなりに成功を収めたいのならば、ゴルフを(ホーガンのような達人みたいに)グリップから始めてはならないのかもしれない訳だ。


ゴルフクラブを持つ前に、ターゲットを意識する前に、飛距離を目算する前に、


何よりも前に、まず貴方は(ボールが置かれる)地面の様子を観察しなければならない。


そう。前の話から、既に著者のレッスンはスタートしていたのである。


(続く)

いきなり始まるゴルフスイング(1)

早速本題に入ることにする。


著者が序章「このゴルフブログの趣旨について」で延々と語ったことは、「定義すること」についてである。「定義する」ことは「技術のことを語る」ことに他ならない。例えば、ゴルフスイングをする時に、貴方がゴルファーだとしたら、何に対してスイングするのかを想像してみて欲しい。


問い1.貴方は何に対してゴルフスイングするのか?


①ボールに対して
②地面に対して
③ターゲットに対して
④飛球線に対して
⑤背骨に対して
⑥スタンスに対して
⑦上記以外の何か別のものに対して


貴方の答えは上記①~⑦のどれになるだろう?


これは「スイングとは何かか?」を定義する上で重要な質問の一部であるのだが、この「定義する」ことがスイング技術そのものを説明する行為に繋がっているのだとも、同時に理解できる筈なのである。


(意味が分からないかもしれないが、このまま話を続けていくので、しばらく我慢して読み続けて欲しい。)


著者の答えを先に告げると、答えは「②地面に対して」が正解となる。


「④飛球線に対して」も惜しいが、やや正確性に欠く。ゴルフスイングはあくまで地面に対して行う運動であるという事だ。故に②以外の間違った対象に対してスイングを行うと、その間違った意識でスイングするゴルファーのショットは、絶えずして正確性に欠いた結果となるであろう、と著者は宣言する事となる。


これが事実だとしたらとても手厳しい言い分である。ここまで宣言されると他の答えを選ぶ気持ちも薄れてしまうだろう。それで良いと言い切れるからこそ、著者は「正解は②」だと宣言するのである(信じて欲しい)。


そして正解を②だと宣言されたゴルファーは、その後のスイング運動を全く別のものに変化させられてしまう。


すなわち正確にものごとを「定義」する行為は、スイング運動に著しい影響を与える結果を招くのだと言えるから、「定義する」ことは「技術を語る」に等しい行為だと言える訳である。


この問いから、スイングする対象を変えることはスイング運動全体を変える大きな行為であるのだとも理解される。


例えば、ゴミ箱にゴミを投げ入れようと意識する時、柔軟体操をしようと両手を左右に振ろうと意識する時、目の前の対象物を横からぶん殴ろうと意識する時、棒で太鼓を叩こうと意識する時・・・それぞれの意識に対し、それぞれの運動状態はまったく別のものとしてユニークに召還される。さらに付け加えると、それらの変化は「練習ゼロ」でいきなりゴルファーの体に発現するのである。


(答えを先に告げると)ゴルフスイングは「地面を意識する行為」そのものの中で行われう運動現象であると定義できる。


確かにそれはゴルフスイングの正しい意識の持ち方なのだが、このように正しい結論を先に定義すると、多くのゴルファー達に要らぬ疑念を抱かせてしまう懸念がある。だから定義と同時に、その理由を説明しなければならない義務が発生してしまうのである。


このケースの場合、想定されるゴルファーの疑念はおおよそ以下のようなものになるだろう。


「ボールを意識するのと、地面を意識するのと何が違うの?!(怒)」


これまでボールにだけ集中してきたゴルファーが、「ボールに集中するのが正しい」と信じて努力を積み上げてきたゴルファーが、その積み立て預金を全てドブに投げ捨てるような意味となる「ボールへの意識は間違い。今後は地面を意識しなさい。」といきなり宣言されても、そんな些細な違いがより良いスイングに関係するとはとても思えないのである。


だから(試しもせず)素直に受け入れられない状態になるのがオチとなる。本当は、ボールを意識する場合と、地面を意識する場合とで、明らかなる違いが生じるのを察知できない「凡庸なゴルファーの反応」に過ぎないのだが、著者のように「ガッチリ定義」してしまうと、そのような凡庸なゴルファーらに説明する責任が同時に発生するのだから、世の中は厄介である。


物事とは「難しくて分からないもの」ではなく、「いいから黙って言うとおりにしろ!」というのが実践出来ないから、ややこしい物事として目の前に出現するのが道理である。が、このブログではこの「定義に対する説明責任」を律儀に果たしていこうと思う。


何故なら、このブログの著者がこのような厄介で難解な話が大好きだから(笑)。その方が書き手として面白い。冒険じみてスリリングでワクワクするので、今後このブログはますます難解で厄介な方向に舵を切っていくことにしようと、今ここでいきなり宣言する。


(ますます混沌なる次回へと続く)