「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

このゴルフブログの趣旨について(2)


(前回の続き)このゴルフブログは思想家・東浩紀の文体を真似て書き進めるから、思想家特有の暗く重たい哲学的な雰囲気で語られるゴルフ話に違和感を覚えるかもしれない。実際、思想家がゴルフの話をする訳もないから、ことさら変に感じられるのだろう。


それは仕方がないが、このような哲学的思考でしかアクセスできない技術的な側面が、ゴルフの中にも存在していると、私には感じられる。


だから、思想家・東浩紀の哲学的思考の力が秘められている言葉を借りる(真似る)ことで、一般的なゴルフレッスンでは見る事が叶わない、ゴルフ技術の違った側面を見ることができるかもしれない(私自身もそれを期待しながら書いている)。


あまりハードルを上げ過ぎるとやりにくくなるので(笑)、早速始めたいと思う。


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このブログでは「純粋なゴルフ技術論」だけを扱っていく。ボールをより遠くに飛ばす秘訣などといった人目を引きやすい無粋な要素はできるだけ排除して、ただひたすら弾道をコントロールする為の精度だけを求めた純粋なゴルフ技術だけを扱っていく。


「純粋」という言葉を使ってまで定義しようとしている部分に着目してほしい。


私のように偏屈で理屈っぽい人間にとって、ごく一般的なゴルフレッスンで使われている言葉には、定義しようしている技術の要素をかなり曖昧に、時に論理破綻させてしまっている場面がよくあるように感じられる。


例えば、テレビのゴルフレッスン番組などでプロゴルファーが打撃技術の説明をした後、最後のまとめで「とにかくボールを沢山打つこと。何事も練習あるのみです!」といった決まり文句で締めくくる場面に遭遇することがある(本当によくある)。


それの何処が変なの?と不思議に思うかもしれない。それはまったく普通の反応であるが、私にとっては問題があるように感じるのだ。「技術とは何か?」といった本質的な問いを考えるなら、この言葉に含まれる問題点を決して見逃せない。


どれだけ優れた技術でも、現実のゴルフではミスショットが必ず生まれる。それは仕方がないが、そのミスの原因を「練習不足」といった解釈の枠に入れてしまうと、それが癖になると、そのミスに含まれる「本質的な原因」を捜し求めようとする眼力や思考力が弱まってしまう危険性がある。


そう言われてみれば素直にそう思うかもしれないが、往々にして人々は失敗した際に「一杯失敗して恥をかくのが大事だよ」といった、本質的な原因とは明らかに無関係な要素、特に罰則的な要素だけをアドバイスしたがる。練習不足という言葉の意味も「もっと努力する罰を与える」という意味でしか使っていないのである。


確かに練習不足がミスの原因の一端を示すことは多い。だから「練習不足」はオールマイティ的にミスの原因として成立しうる可能性があるのだろう。しかし、そのオールマイティな便利さが、本質的なミスの原因を突き詰めようと思考を邪魔するマイナス因子として働いてしまう危険性があることに、気が付けなくさせている側面もあるのだ。


少し分かりにくい話かもしれない。これについては、前の話で出したような「PGAのインストラクターから正式なゴルフレッスンを受講し、潤沢な練習時間とラウンド経験を積み重ねてレベルアップを果たしたアマチュアゴルファー」を想定してみると分かりやすくなる。


飽くなき情熱を傾けるアマチュアゴルファーが居たとする(※想定)。


彼にとってゴルフとは人生そのものである。これまで彼はあらゆる犠牲を払ってゴルフのスキルアップの為の努力をし続けてきた。彼の家の財政が傾く寸前までゴルフをする為の資金をつぎ込み、彼が自由に使える全ての時間をゴルフの為に注ぎ込んできた。その甲斐あって、彼は「ハンデゼロ」のトップアマまで登り詰めたのである。


そんな彼の目前で、いつも一緒にコースをまわる相方がいつものミスショットをする。彼の相方もかなりのゴルフ好きで腕前もシングルクラスだが、彼ほどの犠牲を払ってまでゴルフをしている訳ではなかったから、ゴルフの腕もシングルになったところで停滞していた。


つまり、人生の全てをゴルフに捧げているトップアマの目前で、それほどでもない相方がミスショットした訳である。この現象を目前としたトップアマの彼が脳裏に浮かぶことは大体想像がつくと思う。(とても簡単なことだ)


彼の脳裏に飛来したのは間違いなく「これだけの練習時間と金を費やしてきた俺に比べ、あいつがゴルフに投資した量は全く足りていない」という損得勘定である。


「俺のほうがずっと苦労(損)している」


そして彼はそこから浮かんだ言葉を口にする。いわゆる「練習不足」という言葉は、裏返せば「自分がつぎ込んだ努力量に比べて、彼の量はまったく足りていない。」という損得勘定から生じる「嫉妬心」なのである。


彼は努力量が自分とは程遠い相方を「楽させて上手くなって欲しい」とは思っていない。それどころか、「何でこいつは俺に比べて苦労しようとしないのだ?(なぜ俺より楽しているのだ?)」といった嫉妬の感情が心を支配してしまうのである。


そういう怒りの感情である「嫉妬心」は、本来ならあった筈の彼のナチュラルな思考力を完全に奪ってしまうのである。


苦労の末に掴んだゴルフスキルと同等の結果を得たいのなら、彼(相方)は自分と同等の苦労を背負うべきだ思う「平等心(=嫉妬心)」を感情論的に唱え始める。そして本当は存在しているかもしれない「本質的なミスの原因」を探らせまいと、彼の怒りの感情が彼のナチュラルな思考を邪魔してしまうのである。


逆に、もしそのミスの「本質的な原因」を突き止めることによって、それまでトップアマの彼が積み重ねてきたゴルフへの多大な投資や数々の苦労をまったく必要としない、斬新かつシンプルで理にかなったゴルフ技術が開発されたとしたら、苦労を重ねてそれを手に入れた彼はどう思うだろうか?


それによって相方がいつもしているミスをいとも簡単に、完全無欠に、撲滅させてしまったらどう思うだろうか?


恐らくそのトップアマは「これまで自分が積み重ねてきた苦労は一体何だったのか?」と苦悩して不幸な心を背負い込むに違いないのである。


誰だって自分が注ぎ込んだ多大な情熱や投資、苦労の積み重ねを否定されたくはない。苦労の積み重ねで練成されたゴルフスキルを、簡単・格安・最短の方法であっさり抜かれたくは無いという損得勘定(=感情)は、人としてある方が普通だからだ。


故に彼は無意識的にその由々しき事態を回避したいと願うだろう。


あらゆるミスの原因を「その人が自分より少ない投資しかしてこなかったから」という投資の量の違いだけで理解を埋めてしまおうとする。そしてさらに、本質的な問題点は決して見えないように、間違っても発見しないように、無意識的に盲点とそれを重ね合わせ、見えなくしてしまおうとする。


そのような「思考の落とし穴」を自ら作り上げ、自分からその穴に落ちてしまう。それは全て無意識的な行為だから、彼ら自身すらその事実に気が付くことできない構造的な状況に陥っている訳である。


この由々しき現象は、アマチュアゴルファーに限った話ではない。


長くなったので、この続きは次に持ち越すことにしよう。ではまた!

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