「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

このゴルフブログの趣旨について(完結)

ベン・ホーガンの「モダンゴルフ」はゴルフ界の歴史的遺産であると言える。


彼の偉大な足跡をそのまま残したゴルフの「歴史書」は、その後のゴルフスイング技術を語る上で欠かせない必須の要素ともなった。何故ならこの「モダンゴルフの系譜」における正統な後継者が、他でもない現代のPGAの最先端スイング技術と繋がっているからである。


勿論60年以上も過去の遺物である「モダンゴルフ」のスイング技術は、現代においてその全てがアップデートされていると言っても過言では無いから、具体的に現代の技術のどれとも正確に重なる訳では無い。とある超有名なティーチングプロは「モダンゴルフ」のことを古典だとも語った。


それでは一体(著者は)「モダンゴルフ」のどこが現代のPGAが推奨する最先端のゴルフ技術と繋がっていると言うのだろうか?


それはゴルフ技術の習得に必要な過程を、ベン・ホーガンが歩んだ足跡と合わせようとしている部分である。つまりゴルファーがそれなりに使える技術力を習得するのに「とある化学的な変化」を発生させる最低限の練習量(5千~1万回?)が必要であるというベン・ホーガンの意に、PGAは「正統な技術」としての冠を与える形で認めた訳である。


これによってPGAのインストラクター業が職業として成立したり、ゴルフ市場全体に莫大な恩恵をもたらしたのだと、著者は勝手に想像している(笑)。


故に正式なPGAのインストラクターは、本質的な技術の習得に「とある一定以上の練習量」が必要であると考えているし、それこそが、あらゆるゴルフ技術を伝授する「王道」であると信じて疑わないだろう。


この「王道」とも呼べる技術伝授の仕方を、ここでは「記憶系」と名付けることにする。


この「記憶系」で伝授されるゴルフ技術の世界では、頭で理解するだけでは意味が無いとされる。曰くゴルフは体を使ってナンボの世界。その無限ループ的な繰り返しの中で全てのゴルファーは「スイングの感覚を体に染み込ませる」といった経過を待たねば、練達の結果を手にする事ができない訳である。


故に「記憶系」のゴルフ技術の中には「下手を固めるのが練習である」といった言葉に行き着くケースもまれに存在している(実際にこの言葉は、ある有名なアマチュアゴルファーの名言であるとされている)。


それはどんな下手なスイングでも、固まって安定さえすれば競技ゴルフでさえ通用する、といった極端な考え方であるが、この体育会系っぽい印象も受ける「記憶系」が、あらゆる競技ゴルフを制覇し続けてきた歴史もあるから、実績という点では他を圧倒しているのである。


私も実績を楯にされると、この「記憶系」の技術を完全に否定することができない。


それでも私は、この手の体育会系っぽい技術論に興味が沸かない。「記憶系」のゴルフ技術にどれだけ燦然たる実績があったとしても、「ゴルフ技術の本質」を示しているとは、どうしても思えないからだ。


そんな私のことを殆どのゴルファーは、なんとも偏屈で頑固な奴だと思うかもしれない。そして「だったらお前は記憶系以外の使える技術を何か提示できるというのか?」といった疑念も沸き起こるかもしれない。


さて、そのような欺瞞が生じた処で、ようやく話を戻すことができる。


これから私が書き始めるゴルフ技術は「純粋な技術論」であると先に告げたが、それは大衆的ゴルファーが現役当時のベン・ホーガンに求めた「魔法の呪文(=シークレット)」のような便利グッズでもなければ、この体育会系的な練習量によって練達される時期をひたすら我慢して待つ「記憶系」でも無いのである。


すなわち、このゴルフブログでこれから長々と書き始める自己流のゴルフ技術は、「記憶系(練習量)に頼らず、本質的なゴルフ技術の構築を目指した体系」であると定義できよう。


そのように、他とは全く違う技術体系をこれからこのブログで提示しようとする、私の野望じみた真意を伝えることが、ようやくここで完結したのである。


とにかくダラダラ想定の3倍長くなってしまったが、これから書き始める私のゴルフ技術がどのようなものか、それなりに定義できたとは思うので、ここでとりあえずこの話を終えたいと思う。


(それではまた!)

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