「ゴルフをしない私」から「ゴルフをする未来の私」へ

10年前まで月1ゴルファーだった私も、今では月1~2回練習場に行くだけの「ゴルフをしない人」です。経済的な事情で一旦ゴルフから身を引きつつ、それでも遠い未来で再開するのを夢見ているオヤジは、今の日本に大勢いると思われます。そんなオヤジの、遠い未来に再開される自身のゴルファー像を夢見るブログを作ろうと思います。

たまにはゴルフ以外の話を(3)

落合陽一がとあるネット媒体で「日本語のアップデートが必要だ」といった。


テクノロジーの世界をリードする先鋭的なエンジニアとして「魔法使い」とまであだ名される落合陽一の言わんとしていることは、あまりにも斬新で先鋭的で、核心的にこの問題を指摘している。彼の思考の切れ味はお見事というしかない。


核心を突いたこの言葉の意味は、今後あらゆる分野に大きな波紋を起こす可能性すら感じさせる。落合陽一はそれだけ「巨大なテーマ」を産み落としてくれた可能性もある訳だが、残念ながら、多忙極まる現代の魔法使いが、この巨大なテーマに本気で取り組み、我々を的確に導いてくれることは、期待できない。(落合陽一氏には、それをやってのける才能がありそうなだけに、残念である)


日本語のアップデートといっても、明治時代の福沢諭吉まで遡るが、歴史上何度かあったらしい。夏目漱石なども、日本語のアップデートに大きな役割を果たした人物としてよく知られているが、落合が言うには、それ以来(日本国内の偉人と呼ばれるレベルでの)本格的な日本語のアップデートは行われていないらしい。


だから落合陽一氏は、現時点で我々が使っている日本語と、リアルタイムで海外の英文などを翻訳する際に、決定的に大きな隔たりを、「壁」を実感するというのだ。


(落合の指摘する意味で)次世代のアップデートされた後の日本語がどのようなものかは、我々凡人の知るよしはない。が、落合の指摘する「日本語にそもそもある、言語としての欠陥」については、それなりに掴める部分もあるので、ここで少し触れたいと思う。


アメリカ育ちで、日本語を含めた多国語を身に付けて使い分ける落合陽一にとって、日本語だけに実感される「明治期以降アップデートされていない日本語のまったく使えない感」は、かなり決定的なものなのだろう。


だが、日本語しか知らずに、日本国内でのみのコミュニケーションで留まる(ガラパゴス的な)多くの日本人にとって、それは実感しにくい部分(=欠陥)であるのだとも言える。 ※勿論、著者もガラパゴス一族に含まれる。


我々日本人は、世界各国と比較しても、本当にそこまで欠陥のある「言葉(ゲンゴ)」を使っているのだろうか?


例えば、福島原発事故における世界各国が扱う「フクシマ」という言葉と、凡夫な日本人の我々が普段使っている「福島」という、ひとつの地名としての言葉とでは、決定的ともいえるニュアンスの隔たりがあると指摘されている。


落合の言わんとする「日本語の欠陥」とは、おそらくそのような部分と密接に関わっていると考えられる。


例えば、上の文で書いた「言語」という漢字を「コトバ」と読むか、あるいは「ゲンゴ」と読むかは、書き手である著者にしか正解が分からないように、日本語は構造的に閉ざされている。


実際の閲覧者も、その漢字2文字をどちらの読み方で理解するべきかを、このブログの文脈的な状況判断によって、そして各々の読解力に頼った「力技」として、分析的に扱い分けている筈なのである。


この漢字2文字を「ゲンゴ」と読む場合、「哲学的」あるいは一神教における「神の言葉」のような、本質的なニュアンスの意味になる。この一神教とは、すなわちキリスト教に他ならないが、大方違う宗教観を抱く多くの日本人にとって、その哲学的な意味を真に知る術は、原理的に存在しない(筈である)。


あるいは、日本人にとっては「哲学的な」という表現よりも、「天皇のお言葉」といった表現の方が実感しやすいかもしれない。天皇陛下が「コトバ」とお読みになると、我々一般的な日本人はその意味を、同じ漢字2文字を「ゲンゴ」と読む場合のものと、本質的な意味としては近い感覚として受け取れるかもしれない、という訳である。


だが、多くの日本人にとって「ゲンゴ」という読み方の違いから、そもそも意味の違う単語として成立することすら、知られていない可能性が高いのではないか?


(実際、この漢字2文字を「コトバ」や「ゲンゴ」と読み分けることで、決定的な違いがあるという認識が共有されているかどうかも不明なままで、この文章も書き進められている訳なのだが・・・)


そのように「ゲンゴ」と「コトバ」との違いをまったく実感できない者と、その言葉のニュアンスとして潜む「畏怖」「神々しい」「本質的」「哲学的」といった違いまで実感して、キチンと理解できる者とが、仮にとある機会で「言語(ゲンゴ)」について話し合うとしたら、その結果は「意見の食い違いを生む」だけで終わる、時間の無駄にしかならないものとなるだろう。


そのように「アップデートされずに放置され続けた(構造的に欠陥のある)日本語」の末路によって、私たち日本人は、本当ならもっと建設的で発展的な話し合いができるであろう、あらゆる機会から足を遠ざけるような道を選ぶしか無い社会を作り上げてしまっているのかもしれない。


そのように、落合陽一のまったく新しい日本語の(アップデートと呼ぶ)どこか発明的なものの必要性を示唆している部分までは理解できても、(もしかして)彼が垣間見ている、その発見的な具体案は、凡夫の著者にはまったく見えて来ない。


この日本語特有の欠陥問題を、提起するのも、解決するのも、国内では理系と呼ばれる優秀なエンジニアの役割なのかもしれない。(文系にはちょっと荷が重いと著者は感じてしまうのだ)


ともかく、日本語に欠陥があろうと無かろうと、凡夫の我々日本人にとって、現実的に扱える言葉はこのコトバでしかない。


このブログを書いていて、著者にも「壁」のように感じられる時があるが、もしかしたらそういった困難さの本質的な原因は、この「日本語の欠陥」とも関係している可能性もあるのだが、凡夫な日本人である著者は、今後もこの(扱いにくい)欠陥のある言葉を使って、やりくりするしか無い訳である。


がんばろう、ニッポン人!

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